きゃばちょこ鉄道ライブラリー 1−1 私と鉄道
国鉄川俣線の思い出
 

(川俣線のルートマップ 資料:Google)

川俣線は、私が高校2年生だった
1972年(昭和47年)5月13日に
廃止になった国鉄ローカル線です。
東北本線松川から岩代飯野・岩代川俣間の全長12.2km。
途中に浜子隧道と阿武隈川橋梁があります。
バックの写真は、
昭和47年の廃止当日付の「岩代飯野→40円区間」切符です。

我が飯野町を通っていた唯一の鉄道でした。
鉄道に乗った思い出で一番古い記憶がこの川俣線ですし、
鉄道に興味を持つきっかけを作ってくれたのも川俣線でした。


 
 1、C12型 蒸気機関車牽引の時代

昭和40年、私が小学4年生の時の事です。
当時川俣線は、C12型蒸気機関車が活躍していました。
私は父と姉と3人で川俣線の列車に乗る機会がありました。

初めて乗ったC12が引く列車の中で、父は
「汽車の音は『ドガダのバガヤロ!』って聞こえっぺ」
と、教えてくれました。(ドガダとは土方の意味)
私はそのドラフト音を聞いて「うん!本当にそう聞こえる!」
「♪ドガダのバガヤロ♪、♪ドガダのバガヤロ♪」
大きな声でドラフト音に合わせて楽しんでしまいました。

(以下はインターネット調査からの引用です)
昭和40年頃に川俣線で運行されていたC12は、
福島第一機関区に配属されていた、
「169」・「231」・「252」号機の3機。
毎朝交代で福島第一機関区から松川へ回送され、
川俣線の任についていたそうです。


「川俣線C12時代の時刻表」
【交通公社時刻表・昭和40年(1965年)10月号より】




「川俣線を走るC12  廣田尚敬氏撮影」 
【保育社カラーブックス152 蒸気機関車より】



41年10月に川俣線はディーゼル化(無煙化)され、
C-12はそれぞれ次の任地へ飛び立って行きました。
私が初めて川俣線に乗ったわずか1年後の事であり、
上記4年生の時が川俣線のSLの乗った、
最初で最後になってしまいました。

上記3機の中で「231号機」は、
唯一解体されずに現存しています。

福島を飛び立った「231号機」は、
会津若松機関区を経て
愛媛県の宇和島機関区へ、
内子線で活躍しました。
内子線でさよなら運転をして引退し、
今でも「内子駅前」に保存されています。
(詳細は下記「内子線C12 231お別れ運転添乗記」参照を)

この川俣線ゆかりの「C12 231号機」
いつか、内子駅に会いに行きたいものです。





 「内子駅前のC12 231号機」
「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」より
写真を引用させていただきました。
資料:
 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」

「内子線C12 231お別れ運転添乗記…大島高義氏」 
(鉄道ジャーナル 通巻40号 1970年9月号より)



 
 C12 231の車歴 

製造:1939(昭和14年)年9月21日 日本車輛No.750
移動:1940(昭和15年)年4月5日 小牛田
移動:1944年(昭和19年)10月9日 長町
工場入場:1945年(昭和20年)11月1日 郡山工場
移動:1946年(昭和21年)6月21日 小牛田

〈川俣線活躍時代〉
移動:1959年(昭和34年)4月12日 福島第一
工場入場:1960年(昭和35年)4月27日 郡山工場


移動:1968年(昭和43年)4月15日 会津若松
移動:1968年(昭和43年)4月25日 郡山工場
工場入場:1969年(昭和44年)7月12日 多度津工場
移動:1969年(昭和44年)9月4日 宇和島
工場入場:1969年(昭和44年)12月14日 多度津工場
移動:1969年(昭和44年)12月22日 宇和島
お別れ運転:1970年(昭和45年)3月31日 内子線
廃車:1970年(昭和45年)5月28日 宇和島
走行距離:1,209,334km
保存時契約当事者
国有鉄道:四国総局長 
相手方:愛媛県内子町長 1970年(昭和45年)9月25日
JR発足時の移管先:JR四国
保存にかかわる情報
管理: 所有:JR四国(無償貸与)

資料: 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」



 
2、ディーゼル化から路線廃止へ
無煙化された川俣線では、
「キハ23形」、「キハ28形」、「キハ52形」等の
気動車が、後ろに数両の貨物車を引いて、
松川と岩代川俣間を毎日数往復する姿が印象的でした。

私の鉄道ライブラリーに残っている
「川俣線の思い出」を記録に留めておきます。


川俣線の切符@ 中学3年の時、岩代飯野駅→40円区間


川俣線の切符A 高校1年の時購入、福島駅→80円区間


川俣線の切符B 川俣線最終日の切符、岩代飯野→40円区間


昭和46年冬に撮影
  
 
我が町の駅、「岩代飯野駅」@
駅前では子供たちが遊んでいました。
 
 
我が町の駅、「岩代飯野駅」A
ホーム奥から駅舎を見た姿。
 
我が町の駅、「岩代飯野駅」B
小じんまりした出札所。右側は手荷物扱所。
 
昭和47年に撮影、「松川駅」北側の道路橋から。
1番線が川俣線のホーム。
以下の写真は川俣線廃止の年1972年(昭和47年)に撮影 

  雪の日に@
キハ52形+キハ23形にワム貨物車2両従えて。
 
 
  雪の日にA
ディーゼルカー+貨物は川俣線では日常。

 上の松川駅の拡大写真。
川俣線ホームには出発待ちのキハ23形。
 

 駅すぐ北側の自由歩道橋から。
今日の川俣側先頭はキハ23形近郊型気動車

 「松川駅1番線川俣線ホーム」で@
松川側はキハ28形急行型気動車。

 「松川駅1番線川俣線ホーム」でA
岩代川俣側はキハ52形一般型気動車。

 浜子隧道から出る「松川行き」。
キハ28形が松川側出口を出たところです。

 浜子隧道から出る「岩代川俣行き」。
キハ23形が川俣側を出たところです。

 阿武隈川橋梁を渡る。
「松川行き」のキハ28形です。

 在りし日の岩代飯野駅@(JA広報誌より)
高校生が降りた所ですので、夕方の様子ですね。

   在りし日の岩代飯野駅A(JA広報誌より)
小学生が駅を見に来たのか、これから乗ろうとしているのかは不明。
右の引き込み線にそれを見る親の姿が見えます。
キハ28形とキハ52形(またはキハ23形)の2両編成が川俣線気動車の基本編成。


「川俣線廃止の昭和47年5月の時刻表」
【交通公社時刻表・昭和47年(1972年)5月号より】


 
 

  5月13日732Dさようなら列車のキハ28形。
高校生の吹奏楽に送られ「岩代川俣」を出発。
 

  5月13日732Dさようなら列車のキハ28形。
「岩代飯野駅」でも多くの人たちに見送られ。
 

 5月13日732Dさようなら列車のキハ28形。
多くのお客様と多くの見送りに見守られ最後の旅立ち。
 

   廃止前までの通学定期
私は当時高校生、友人の定期券を頂いたもの。
この駅名ともついにお別れが……。

「川俣線廃止の昭和47年5月の時刻表」からA
【交通公社時刻表・昭和40年(1965年)10月号より】
 
翌日14日からは、国鉄バスの運行に。
この国鉄バスも現在は廃止になり、地元のタクシー会社がマイクロバスで運行。


 
 川俣線廃止翌日・14日の「岩代飯野駅」@。
自力回送で保存用のC1260がやってきました。
 
 川俣線廃止翌日・14日の「岩代飯野駅」A。
C1260の奥にはお役目御免になった岩代飯野駅。


 平成23年(2011年)9月のC12 60です。

C12 60は川俣線を走った経験は、
昭和47年4月14日川俣線廃止翌日の自力回送された1回きりでした。
その後39年間にわたってこの飯野駅跡地(現在は飯野学習センター)
に保存されて来ました。(2011.9.22撮影)



 機関車の脇にはみんなにC12 60について判ってもらうように
看板に車歴についてとお願いが書かれています。
機関室だけに入れるように階段も設置されています
 

残念ながら何度か塗りなおされていますが、風雨にさらされた車体は、
塗装が落ち、汚濁雫の線が無数の縦縞になり、いたるところがさびて腐食しています。


機関室に目をやると、以前のようにゴミだらけにはなっていませんでしたが、
計器類は全て壊され、痛々しい姿になっています。

これ以上荒らされることなく、
川俣線ゆかりの車両として町民に大切にされる事を切に願っています。

  C12 60の車歴 

製造:1934年(昭和9年)3月20日汽車製造No.1219
配置:1941年(昭和16年)3月31日 宮原
配置:1949年(昭和24年)3月1日 西舞鶴
配置:1961年(昭和36年)3月31日 出雲
配置:西舞鶴
移動:1972年(昭和47年)3月23日 会津若松
さようなら運転:1972年(昭和47年)5月14日 川俣線
廃車:1972年(昭和47年)5月14日 会津若松
走行距離: 1,440,000Km
保存開始: 1972年(昭和47年)5月15日 設置
保存時契約当事者 国有鉄道:仙台鉄道管理局長
相手方: 福島県飯野町長 1972年(昭和47)年5月14日
JR発足時の移管先:JR東日本
保存にかかわる情報 管理: 所有: JR東日本(無償貸与)

資料: 「蒸気機関車ほか 鉄道保存車両について」


きゃばちょこの住んでいる所はこんな所へ

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